日立京大ラボ

Crisis 5.0 / Beyond Smart Life

本研究は、2050年の社会課題の根源を探索し、そのときの大学・企業のあるべき姿を考えることを目的としたものです。
2016年から京都大学の計20名を超える先生方との対話を継続し、それぞれの専門分野の視座における物事の捉え方、今の社会のありよう、その変化と原因を聞き取り、得られた知見を統合し、2050年の日本社会が直面し得る社会課題と、本質的な解決策の糸口を考察しました。
将来、我々の生活を脅かす可能性のある根源的な社会課題の探索を「Crisis 5.0」として本サイトにて公開。また、その危機からの脱出方法の考察を「Beyond Smart Life 好奇心が駆動する社会」と題した出版書籍(2020年8月発刊)にまとめ、発信しています。

将来、仮に2050 年としましょう。
私たちはどんなことに悩んでいるのでしょう。高齢化、少子化、過疎化でしょうか?いや、これらは受け入れざるを得ない「現象」です。こういった現象が私たちの大事なもの、生命、財産、人権、アイデンティティなどを脅かし、「不安」が生まれるとき社会課題が生まれます。

では、どう脅かすのか?
私たちは京都大学の多くの先生方と対話し、このことを考えてきました。霊長類、税制論、古代ローマ史、人のこころのありよう、東南アジアやアフリカの社会など、さまざまな専門分野の先生方との対話は、一見、日本の将来の社会課題から遠いようでありながら、実は全ての話は人が持つ根源的な「不安」につながっているという発見をしました。この発見を、立ち向かうべき危機を直視しようとの思いでまとめたものが、『Crisis 5.0』です。

  • 山極 壽一 京都大学総長
    ききて:日立製作所 日立未来課題探索共同研究部門

  • 不安に抗う人間社会

    たとえば馬、サル、ゴリラなどが群れをつくり自身をそのなかに位置づけているのと同様、ヒトも言語を有する以前から社会をつくっていた。社会の根源的な本質はそのころから形成され、いまなお継承されている。

    なぜ人類は社会をつくったか。「死への不安」と「他者に対する不安」に対抗し、克服するためである。そして、ほかの動物の群れと人間社会の大きな違いは、定住と農耕によって不可逆的に生じた、「未来を信じる」という精神性による。

    農耕は栽培技術の革新と捉えるより、この不可逆的変革を保証したという意味が大きい。定住し、作物を育てるという未来への投資行為は、それまでの狩猟や採集よりもはるかに重労働であり、「未来を信じる」という精神性なくしては実現しない。

    未来を信じる精神性

    「未来を信じる」、すなわち「今日より明日はよい日になる」と信じるために、今日を耐え、あるいは明日のために工夫する。明日の不安をなくすため今日に工夫する、という精神を人類は得た。

    次に、人類は、ほかの土地に移動して利益を拡大するという精神を生んだ。古代の帝国から近代国家に至るこの精神に基づく社会は「国」というかたちで制度化され、国民の利益を守っている。

    だが、現在の情報社会では、グローバル企業の力が台頭する傍ら国家の自立性が不透明化している。

    他者を遠ざけた社会が抱える不安

    文明の発達は、人類の根源的な不安である「死」と「他者」を遠ざける安全な社会をつくり出してきたが、結果的に他者とあまり関わらずとも生きていける社会へと成熟している。しかし、これは太古の狩猟・採集時代の自給自足で生きている状態とは異なり、実際は他者の力をあらゆる場面で借りているにもかかわらず、他者と関係を結ばずに生きていける社会である。

    現在の大きな課題は、こうして社会や他者が個人から離れてしまい、他者の存在が希薄になっている点である。文明の発達は不安をなくすためだったはずが、より大きな不安を招いているようにもみえる。

    未来を信じて投資することで目の前の不安は消えるが、とらえどころのない不安は大きくなる。そしてこの新しい不安が次の「進歩」の源泉になる、というサイクルが人間社会の発展を促してきた。

    人類はこれを「成長」と信じてきたが、現在このサイクルが加速され、ヒトが人になる以前に身体に染み付いた感覚や長かった狩猟採集時代に身に付けた感覚とのギャップが広がっている。

  • 「未来を信じる」。
    われわれ人間がなにかをなそうとするとき、行動原理の根底には未来への信頼がある。
    生命をはぐくみ、財を築き、生きることの意味を支えているこの「未来を信じる」ことが、困難になりつつある。

    農耕の最も大きな革命は、人類が「未来を信じる」精神性を身に付け、種を蒔くという未来に対する投資を始めたことだという。この精神性は資本主義に引き継がれ、生産と消費を投資によって継続させ発展しつづける現在の世界へと導いた。

    では人はこれまでどのような「未来」を信じてきたのだろうか。たとえば古代ローマ時代では、「努力すれば文明的な生活が手に入り、ローマ人になれる」という精神性がローマ帝国内すみずみの支配層に強く根付き、帝国の運営が可能になった。

    また明治期の日本における「未来」は、日本が当時の列強と並び立つという夢だった。
    その未来を坂の上にぽっかりと浮かんだ雲『坂の上の雲』司馬遼太郎作のように見据え、日本人は坂道を登っていった。

    さらに近現代の資本主義社会・工業化社会においては、国家に代わり企業が未来への投資を集めて生産を行い、利潤を労働者に還元した。まじめに働き、手に職を付けることで、だれでも家族を養い、老いては年金をもらって生活できるという未来への見通しが、資本主義社会を安定させていた。

    特に日本人は、周りと自分を比べて、人並みか少し上の幸せを求める傾向が強く、規格化された同じモノを大量生産するシステムと相性がよかった。だれもが「人並み」を求める未来像が大量生産を促し、規模の経済が実現され、さらに「人並み」の基準が押し上げられることで、その基準に向かって人びとが勤労するというサイクルが、高度経済成長を持続させた。

    「今日よりよい明日が来る」。
    未来を信じるこうした精神性は、しかし現在、不透明感を増している。先進国では生産拠点の海外流出により中間層の没落が起こり、難民流入によって非正規雇用さえ奪われるのではという不安が広がっている。また東南アジアでは、大量生産に応えるために単一作物を大規模に栽培している。この実態は熱帯地域の特性にそぐわず、作物の疫病や災害による飢きんなど高いリスクを抱えている。未来への不透明感の根幹には、これまでよりどころとしてきた「成長」と「持続性」の矛盾がある。長期的には、物質的な豊かさを求める成長と、社会の持続性は両立しないのである。

    わたしたちは、「よりよい未来」を信じる精神性を保ったまま、持続可能な社会—再生エネルギーに依存し、完全リサイクルが実現された社会—を築いていくことができるのだろうか。求めるものが物質的な豊かさではなく、別の価値観へと変化していくのだろうか。
    新しく「信じる」に値する価値観や倫理を確立することができるのだろうか。

  • 人間は、死や他者に対する「不安」から逃れるために社会をつくった。
    現代では、社会を制度化した国家が、国民の生命と財産を守る役割を果たしている。
    特に日本人は、東南アジア諸国などに比して国家を信頼する傾向が強い。
    しかし、いまや国の自立性が不透明感を増し、国家への信頼が揺らいでいる。

    戦後日本における大量生産・大量消費の経済では、企業が地方に生産拠点を据えて雇用を確保し、政府や自治体は地方と都市を結ぶ鉄道や道路をつくることで恩恵が行き渡り、税収も増えることが期待できた。
    だが、近年、生産拠点が海外に移り、国民の消費意欲も低下しているにもかかわらず、日本は大量生産に代わる新しい付加価値サービスを見出せていない。

    日本国家は国債による借金が膨らみ続けており、財政の破綻した地方自治体では公共サービスの縮小が始まっている。地方で職を得られない若い世代が大都市に来て、低賃金の非正規サービス労働に従事することも多い。

    日本人が働くのは主に20代から60代だが、この間に一生の消費分を賄えないと生涯収支が赤字となり、家族や国家からの補償が必要となる。もし少子化が解決されても、この状態では日本の財政はむしろ悪化する。また、企業も収益を上げられなくなり、この状態で税金を徴収されれば、成長に必要な投資が奪われることとなり、いずれ徴収自体が無理になる。

    国際情勢においては、グローバル経済の広がりによって自国の金融政策のみでは経済のコントロールが効かなくなり、先進国政府は国民を納得させることが難しくなっている。既存政権の統治能力の喪失は、国民の政治エリートに対する信頼を失わせる。
    その結果、自国利益優先を主張する政治勢力が台頭し、英国におけるEU 離脱、米国のトランプ大統領当選、欧州の右派勢力台頭といった現象が生まれている。
    しかし保護政策は一時的な効力はあっても、根本解決はできない。
    日本では、今後は東南アジアの人口増と中国の影響力拡大への対応が重要となる。市場的にも発展途上の東南アジアは重要だが、中国のさらなる勢力拡大により東南アジア各国が中国寄りの政策をとる可能性が高く、相対的に日本の影響力が弱まる。こうして、財政的にも国際的な影響力においても、日本は国力が弱まり、国民が国家を頼ることがより難しくなってくる。

    「頼るものがなくなる」。
    だが、国を頼るという精神性は国民国家成立以降に生まれたもので、それ以前の仕組みを見直すことが今後の選択肢のひとつにはならないか。たとえばアフリカや東南アジアでは、もとより国家が頼れる存在ではない。1980年代のエチオピア大干ばつによる飢餓は、国家による国境の制定で人の移動が制限されたことによって生じた。
    東南アジアでは、近代国家の制度が整っていないこともあるが、自然災害が多いため、国のみに頼らずリスクヘッジするという発想が根底にある。そのために人びとは、職種や収入源を増やして複数の生活基盤をもつ。
    インドネシアでは頼母子講などの交流会が盛んで、人びとが多重のネットワークをつくり相互扶助を行っている。またアフリカでは、モノの売買は利益より人との関係構築に重きが置かれる。金銭の貸し借りも関係の緊密化のためであり、返済をしない習慣があるという。

    とはいえ、すでに多くのコミュニティが失われ、人間関係が希薄となっているいまの日本において、こうしたコミュニティによる相互扶助を国家による社会サービスの代わりにすることができるだろうか。
    あるいは、AIやロボットの活用によって社会サービスを低コストで行うことも考えられる。ITの活用によるインフラの高度化や維持、貨幣の発行や流通をネットワーク内で行うビットコイン、高齢者の移動を助ける自動運転などは、技術の発展による低コストの社会サービスとしての可能性が考えられる。

  • 国家が頼れる存在ではなくなったとき、社会サービスは、だれが、どのように維持していくのか。地域のコミュニティでお互いに頼り合う社会はふたたび可能なのか。それとも、自動化された機械による社会サービスの維持が実現するのだろうか。

  • 技術の進歩によって、人間の代わりにAIやロボットがさまざまな役割を担う社会が実現されつつある。
    こうした技術の進歩は、人間になにをもたらすのか。自由だろうか、それとも孤立や失業によるアイデンティティの喪失だろうか。

    人間は、他者から承認されたいという欲求が強く、他者に認められることで自身の存在意義を確認したいという思いが根底にある。労働も、生活の糧ということのみでなく、他者からの評価を受けることで人生の価値を見出す意味もある。自身の労働が社会や他者に対してどんな意義を与えるかを見出している労働者のほうが、燃え尽き症候群になりにくい。快楽による単純な幸福—ヘドニアよりも、善を感じ生きる意味を感じる幸福感—ユーダイモニアを感じるほうが、身体の健康状態もよいという研究もある。

    現在、技術や社会システムの進歩によって、人の仕事は分業化が進み、他人と関わらずとも必要なものを手に入れられる時代になっている。

    ますます発達する技術は、自動化によって人の代わりに仕事を担うようになり、いずれAIが人間以上の思考能力をもちうるという予測もある。AIやロボットが人間以上の思考や運動能力をもつようになったとき、すべての役割は自動化され、人はなにもしなくてよいという状態になりうる。

    いっぽう、日本では田舎に移住する若い世代が増えている。
    不自由なくなんでも手に入る都市生活より、苦労してでも自分で必要なものをつくるために努力する生活を彼らは選んでいる。

    人は、適度に非効率で、適度に非自動化された生活のほうが、生きる意味やアイデンティティを保つことができるのかもしれない。
    ユーダイモニアは、自ら設定した課題を苦労しながら乗り越えていくことで得られるものだという。

  • 人間の自尊心やアイデンティティを保ちながらも、快適性や持続性、レジリエンスを両立させる自動化システムは、どのようなものだろうか。
    それとも、生きていくためのあらゆる行為をAIやロボットに任せ社会と関わらず、自己満足や快楽を充足させることを至上とするような価値観のもとで、人は生きていくことができるのだろうか。

  • Chapter 1、2、3の各章で述べた事象は、それぞれが関連している。

    「未来を信じる」という精神性は資本主義社会と工業化を生み出したが、消費の永続的拡大は環境破壊や資源の枯渇をひき起こす。それらを避けるために経済的成長に歯止めをかけると、社会の富がなくなり、国家財政が困窮する。

    国家の窮乏は、公共サービスの削減に加え、社会保障など富の再分配を行うための財源も奪い、社会格差が増大する。いち早く困窮が始まる地方から大都市へのさらなる人口流入は、大規模な都市型災害などのリスクを高める。

    AIやロボットで生産活動を自動化し低コスト化することで、人びとが生きていくための必需品を生み出すことが、この問題に関するひとつのアプローチとなる。しかしいっぽう、労働によって社会や他人に貢献し、他者に認められたいというのは、人類が社会をつくるうえで身に付けた精神性である。仮に労働しなくても生きていけることになったとしたら、労働によって得られる充足感を得られず、アイデンティティの喪失や疎外感による社会不安の増大ということも考えられる。やはり、人間には労働が必要なのだろうか。そして、そのためには「未来を信じる」という精神性が必要なのだろうか。

    2050年の社会課題を考えるときに生じるトリレンマ

    社会課題、という観点では、これまで高齢化、少子化、都市の過密化などにまず焦点が当たってきたが、これらはより根本的な問題から派生する事象と捉えることができる。

    根本的な問題とは、「信じるもの=未来」「頼るもの=国家」「やること=労働」の三つの喪失がもたらすトリレンマであり、どれかを避けるためになんらかの手を打とうとしても、それは別の問題を助長する。2050年の社会課題とはこのトリレンマからの脱出ゲームである。

    高齢化、少子化、都市の過密化などの個別の課題対策は急がねばならないが、この脱出ゲーム全体の構造を視野に入れて対策を考えなければ、脱出はより難しくなるだろう。

    好奇心が駆動する社会

    「Crisis5.0」で取り上げたのは、未来に待ち構えているかもしれない危機についてです。危機を語っているだけで解決策は示さず、いささか暗い内容に見えるかもしれません。しかし、われわれは、将来を悲観するために研究を始めたのではありません。もしもわれわれに危機が少しでも見えれば、それが望む真実と異なっていても、それを解決する行動を起こせるかもしれません。将来の危機を先取りできれば、研究者にとっては社会に直結する研究テーマの金脈となり、ビジネスパーソンにとっては社会的なインパクトをもつ新事業の宝庫となります。

    将来の危機から脱出を試みるため、京都大学の先生方とのさらなる対話を行い、その考察を「Beyond Smart Life 好奇心が駆動する社会」と題した書籍にまとめました。
    3つの喪失:信じるものがなくなる/頼るものがなくなる/やることがなくなるを解決するヒントを、「不思議や未知なるものにわくわくする心」や「主体的に課題を問い、解決する力」と仮定し、それらのヒントをベースに、「市民参加型の社会システムや社会インフラを構築すること」や「便利すぎない未完成な社会を許容し、多様な人財が社会貢献できる余白をつくること」といった、将来に向けて大切にしたいことの提言を収録しています。

    Beyond Smart Life 好奇心が駆動する社会

    【目次】
    第1章 三つの喪失(トリレンマ)
    第2章 様々な視点によるトリレンマからの脱出のヒント
    第3章 トリレンマからの脱出で大切にしたいこと
    第4章 実践的な取り組み
    第5章 特別対談「幸せ」を中心に未来社会をデザインする
    第6章 問う心を育て、生かす-- 大学と企業の役割
    第7章「 われわれとしての自己」から見た「アフターコロナ」

    単行本(ソフトカバー): 352 ページ
    出版社: 日本経済新聞出版 (2020/8/21)
    言語: 日本語

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